メールマガジン”鬼ノ胃の大あくび”2001年版に連載したものである。
火曜日は、ゴミの問題である




§1

ゴミ問題を、エネルギー問題と同一の視点から眺めるのが、私のスタンスなのである。

今までは、ゴミ問題はモラルからのアプローチという印象が強く、エネルギー問題はコストからのアプローチという印象が強かった。

双方逆の観点からのアプローチを導入して、つまり、モラルとコストとの両面からゴミ問題とエネルギー問題とを考えてみようというのが、”大あくび”の”ゴミの問題”なのである。

ついにこんな大法螺を宣言してしまった。
どうなることやら......


§2

”ごみ”って何なの?を探ることから始めてみよう。

ややこしくしないために、時間とか思い出とかのように、形の無いものを同じ俎板の上に載せるのは止めたい。
また、形あるものでも、食料以外の動物(人間をもちろん含む)は、当面、対象には入れない。
当面と書いたのには意味がある。
どうしても避けて通れない事柄であるという認識は、常に持っていないと、大事なところで誤る可能性が高いからである。



§3

もう一つ、所謂産業廃棄物は、別段で考察する必要がある。
特に、放射性物質、毒・劇物や菌類、については、更に特記項目になるだろう。

し尿処理の問題も、別段となる。

ただし、根源は、全て同じなのであろうと推察する。
別々に考えた方が、我々の生活が、如何に人間にとってのご都合主義で営まれているのかの厳しい現実を、目の当たりにできるであろう。
ゴミ問題とは、論理的に解決できる問題ではなく、犠牲をミニマムにする解決法を探るべき問題ナノデアル。


§4

なぜ、こんなにごみが多いの?ごみ処理に掛かる税金いくら?分別は是か非か?なんて議論。
あるいは、最新リサイクル技術、環境問題の豆知識の特集。
読者諸兄は、本誌の内容がこんな話にならずにイライラしていると思う。
しかし、今しばらくお持ち願うことになる。

新しいマンガ本が電車の荷物棚に捨て置かれているとしよう。
これは、ゴミだろうか。
毎日頑張っているお父さん。土日の休みにリビングルームでゴロゴロしている。
これは、ゴミだろうか(それも粗大かつ生というか生き物)。
ゴミの問題は、不埒さとの戦いでもある。

誤解だらけナノデアル。


§5

廃品回収をすることで学校に寄与しようということなのであろう、先日も娘の中学校の父兄事業として(PTAではない。PTA会長が先生である例が無いPTAというシステムは、全く理解できない。この話題は別項に譲らなくてはいけない。)廃品回収が行われた。

この”廃品”は、”ゴミ”と同じ意味であろうか?
廃品を供出してくださる側にとっては、まさしくゴミなのだろう。
しかし、回収する側にとっては、ゴミではない。
ある種商品なのであって、これを販売して、金銭に換えようと考えている訳なのである。
ストレートに結んでしまえば、”ゴミ”とは、”お金”なのである。
この考えは、非常に示唆に富んでいるのではないか。

問題は効率なのである。
父兄の労力を金銭で換算したら、つまり、ゴミを売って得たお金で労働力に対する賃金を支払うならば、この廃品回収はやらないほうが良いに決まっている。
更に言えば、廃品を回収するのには、多くの自家用車が燃料を燃やし、排気ガスを排出するという副次的悪を必要としているのである。

とにかく、この項では、モラルとコストとの両面からゴミ問題とエネルギー問題とを考えてみようということであるのであるから、見逃す訳にはいかない問題ナノデアル。



§6

ほんと、なかなかご期待の”ゴミ問題”にならない。

頭の中で纏めていると、どうしても”エネルギー問題”との結びつきを中心に展開しているのに気付く。
そして、これが主流にならざるを得ない、なるべきであるとの思い込みがあるものだから、困ったものである。
困っているのは私なのだが、もっと身近な”ゴミ問題”を取り上げる必要もあるだろうとの囁きもあるので、まだまだ困り続けるしかないようである。

ゴミ処理は、そのままの形で放っておく(埋め立て・不法投棄)か、形を変化させる(焼却・リサイクル)かの選択になるのである。

現在、前者は悪であり、後者を善であるとする総意が存在する前提で、世の中の仕組みが整えられている様子である。

どうも違うんじゃないのか?



§7

今日は、極めて各論である。

我家は、毎日”ご飯”が残る。
簡単に言えば、今日8合の米を食うと想定すると、炊飯する米の量は、1升なのだ。
おかずにも依るのであるが、とにかく、こと食事に関しては、空腹という”ひもじさ”は避けたいのである。

米作農家の名残で、一年分の米は、秋に確保して倉庫に保管してあるのである。
この一年分という見積りが過大なのであることは承知している。
備蓄された米は、古米を食うという習慣は無いので、次の秋までに食い切ってしまう(使い切ってしまう)必要があると考えている。

通常、残ったご飯はゴミである。多分、読者の方々の家では、生ゴミとして焼却場に送り込むであろう。

言い訳は用意してある。
”残飯”は、庭に埋めて土に返すのだ。そして、それはつまり樹木や畑作物の肥料となるのである、と。

我家の行動は、ゴミ問題を考える上で、どのように評価されるのだろうか。
言い換えれば、我家の行動の何処に問題があるのか、ということである。



§8

さて、ゴミを捨てる習慣は何時から始まったのであろうか。

有史以前の営みの跡として、貝塚から貝殻が、また、住居跡からは、野獣の骨が掘り出される。
これらは、食料として利用した貝や動物の内、食べなかった部分なのである。
いわば廃棄物である。

そして、貝塚は、まとめて廃棄された跡である。
つまり、廃棄物専用の置き場所が決められていて、その地区に住む住民の決め事によって、場所を特定したのであろう。
ゴミ集積場であり、最終処分場でもあった。
居住空間からそう遠くない場所が決定されたと思われる。
遠近はともかく、わざわざ捨てに行くという意味では、明確にゴミという認識があったに違いない。

この時代に、ゴミ捨て場の場所決定をめぐって、近隣のグループとの諍いがあったと認める証拠は無い。



§9

と、最初は、採取した食料の食べられない部分を捨てるという意味でのゴミの発生があったわけである。

貝塚の他にもう一つ、トイレというゴミ集積場兼最終処分場があったはずである。
ただ、この証拠となるような痕跡が見られない。
理由としては二つ。

一つは、今日までの年月に耐えられるような成分ではないので、あるいは、例えば、川の水を利用していたために、そもそもその痕跡が残らない。
こんな理由で、とにかく、決められた場所があったのだが、その痕跡が発見できない。

もう一つは、決められた場所が無かった故に、そもそも”発見”には馴染まない。

私には、前者だと思えるのである。
狩猟などの遠征仕事中は、多分その場で凌ぐのであろう(現代でもそれに近い情況はある)。
しかし、固定した居住区を持つようになった時代、居住区内で生活している時間には、何れかの場所を決めていると考えるほうが自然であろう。



§10

とまあ、食物の内の食べ尽くせないものを廃棄するのが人類のゴミの起源であったであろうという軽〜い考察をした訳である。

やがて、道具の使い捨てが始まるであろうという考えの導入部分なのであった。
実際、土器が作られ、石器、青銅器、鉄器と道具の素材は進展していくのである。

またまた話が逸れるのであるが、念のために記しておく。
現代もまた、鉄器時代なのである。

それ以前の時代を語る機器は残っていて、土器、石器、青銅器も使っているのは当然であって、鉄器時代に生きる我々の身の回りでは、様々な素材の道具を用いている。

使い古された道具、あるいは、使い捨てられることになった道具は、ゴミとして廃棄される運命の道を辿る。

ここに、第二の種類のゴミというべき範疇のゴミが発生したのである。



§11

廃棄物をゴミとみなす事には問題がないと思うが、単に余ったモノをゴミと称することには抵抗がある。
しかし、この”余ったモノ”を発生させてしまったことこそが、ゴミ問題の根源であろう。

自然が処理してくれる限りは、まさしく自然の営みであって、ゴミを認識しないであろう。
食物も道具も捨てなければ良いのであるが、食すことのできない部分や壊れてしまった道具がどうしても発生するのである。

さらに、産業革命によって、生産工程に機械が導入されるに至って、生産力の飛躍的な増大とともに、食物のゴミ、使い捨てられる道具ゴミに加えて、ここに第三のゴミが発生してくるのである。

食物や道具といったモノが生産工程を経て生じるにあたり、排気・排水がまたゴミそのものなのである。

整理してきたつもりが、混乱してきた。
暫くは、身近なゴミ問題の提起をしてみることにする。


§12

スーパーなどで、食料品などの買い物をするのが好きなのである。
一時見かけることもあったのだが、最近見なくなってしまって悲しいものの一つが持参する買い物バッグである。

店内での買い物に使うカゴをレジに持ち込むと、品物を取りあげて金額を打ち込む。そして、別のカゴに移し変えて最後に袋を何枚か載せてくれる。
あの袋は便利である。
確かに、その袋に入れて買い物を持ち帰り、今度は、ゴミ袋として、家庭内のゴミの集積袋として利用することはできる。
他所様に何かをおすそ分けする時にも便利な袋である。

だが、改めて書くまでも無く、あの袋がゴミとして最終処分される量は膨大である。
ゴミ問題は、矢張りこんなところから考えていかねばなるまい。
他人の発生させるゴミの問題を議論する前に、自身の発生させるゴミ問題を意識するためにも、まず、買い物バッグを使おうではないか。
当面は、頂戴する袋はそのまま頂戴しよう。それで構わない。


§13

自然に返せるものは、自然に返すのが一番良い。
こう考えている人は多いらしい。

自然に返すことができるかどうかの判断を、このような人に任せると一大事である。

自動車の中から、”自然に返せると考える”モノを、中央分離帯に向かって放出する。
あるいは、犬を散歩させている時に、”自然に返せると考える”モノをその犬が放出するのは当然であるとみなす。

薬品工業会社の社長は、工場排水を処理無しで海に垂れ流しにして、公害訴訟を起こされた時に、”この通り泳いでも何とも無い。海は汚れていない”などというコメントを、一泳ぎした後に言い放った。
お見事である。

感心ばかりしていられないのである。
何れにしろ理屈でしかないのだけれども、ちとマトモナ理屈で対応しなければならない。

今回掲げた3つの例に対して、あなたは、理屈で相手を打ち負かすことができますか?


§14

モルタルを扱った。
私の日常生活では、年に何度かはこの行動をとる。
必ず余るのである。また、少なくとも道具の水洗いは避けて通れない。

この処分には、いつも悩ませられる。
”どうしているのだ”、と問われれば、”塊にして取ってある(保存してあるの意)”と答える。
但し、洗いに使った水溶液は、下水(下水道は完備されていない。水路に流して、農業用水にも利用するし、やがては海に垂れ流す)に流す。
正当化する論理は無い。

何処かに、現在のゴミ回収システムの矛盾点があるはずなのである。


§15

昨日も、モルタル(厳密にはコンクリート)を扱った。

矢張り余ったのである。
今回は、アンカーを入れて型に嵌めて、ロープ留め重石を作った。
ここまでは良い。

それでも、使用した器具を洗うと、可也の産業廃棄物(水溶液+固形物)が発
生したのである。

地面に撒いた。
じきに表面に膜が張ったように固まった。
手でこねればボロボロになり、廻りの土と違和感は無い。

この行為は、否定されるのだろうか。


§16

ゴミの収集事業に任せるために、月曜日は”燃えるゴミ”とかの表が台所廻りに貼ってあるが、その表に記載して欲しい項目がある。
冷蔵庫やテレビなどの廃棄には、特別な法律が制定された。
買い替えではなく、純粋に廃棄したいときに、何処に持ち込めばよいのかの情報は薄い。
ま、冷蔵庫やテレビならば、電気店に持ち込めば何とかなろうが、要するに再利用することを前提にした、廃棄物持込所の整備とその情報の周知に手をつける必要があろうということである。


§17

有料道路網に設置されたSA・PAのゴミ箱利用者を見ていると、可也の割合の量は、社内から持ち出してきたゴミの廃棄に利用されている。

つまり、ゴミ箱を設置したエリアで発生した(そのエリアにある売店で購入した商品の廃棄部分)のではない、他所から(家庭ゴミの占める割合も相当だという)運び込まれたゴミを捨てている。

あるベンダーさんによれば、街の自動販売機周辺に置かれたゴミ箱(空き缶入れ)には、設置されたメーカー以外のメーカーが製造販売している銘柄の空き缶が多いという。

誰が、このゴミの処理費用を負担すべきか。
大きな問題である。
受益者負担が原則だと考えて、論理を組み立ててみて欲しい。


§18

公共団体のゴミ処理について。
ゴミは、市町村の所有する建造物内(例えば、役所、小中学校、体育館、市民会館)内でも発生するのは間違いない。
このゴミの処理は、どうしているのだろうか。

庁舎の改修工事時における取り壊しにより処分される発生材は、通常、工事費用見積りに計上され、工事請負業者により処分される。
つまり、市の費用負担で処理しているのであるが、どういう風に処理されているかは不明である。

通常業務に伴なう事務所ゴミはどうだろう。
富津市では、ゴミの収集業務による回収ゴミは、個々人の費用負担による原則有料(これは、好ましいことである)である。
この場合、ゴミは、購入した定められた袋に入れて出す。
また、事業所ゴミについては、収集業務は行われない(はず)。

で、市庁舎から出るゴミは、これと同じ袋に入れているのだろうか。
例外規定があるとは聞いていない。
お前が知らないだけだといわれれば、こう答えよう。
市民に知らせが徹底していない原因は、誰にあるのかと。

急に思いついたのだが、千葉県で言えば、千葉県庁庁舎内で発生したゴミ処理は、千葉市が担当しているのだろうか。

推測でものを書いている。
確認の必要アリ。反省してます。


§19

”ゴミは持ち帰ろう。”
自然を標榜する観光地などにある、このスローガンや良し。
持ち帰り先は、各自の家庭を想定しているのであろう。
頑張ってみますと思える観光地は存在する。
人間の善意は、限界はあっても、信じてよい。

ところが、このスローガンを、ゴミ箱の設置をしない名目にしてしまっていることがある。
回収の経済性を考えても、設置したゴミ箱に、きちんと捨ててもらったほうが好ましいのではないかと思う。
まして、その場で処理したいゴミを処理できないと、不当に撒き散らす輩が出現した場合には、一般の人間の善意は、限界を超えてしまって収拾がつかなくなる。

もう一つ。
観光地では、その場でゴミを発生させるようなモノを売る売店を存在させてはならない。
”発生させたものを売った所でゴミを処理させるシステム”にしなければならないであろう。



§20

医療機関のゴミについて。
病院内で発生したゴミについては、それなりの注意を払って、処分していると聞く。

しかし、クスリや治療消耗品(ガーゼ・脱脂綿など)は、患者が自宅に帰って、やがて、ゴミとして、各家庭で処分することになるのである。
特にクスリの処分が気になるのである。

市町村の発行するゴミ処分のパンフレットには、一部記載があるけれども、少なくとも我家では周知されていない。
頓服薬を飲んだ後のカラ袋は、燃えるゴミに分類している。
金属チューブに入った軟膏は、空き缶と一緒である。

スペースが無いから、結論を記載する。
病院・薬局は、個人に発行したクスリの残余物は回収すべきである。
少なくとも、回収容器を院内・店舗内に設置すべきである。

美観はともかくとして、テレビ・洗濯機の回収なんぞよりも、使用済み核燃料の回収に近い扱いで臨むべきであろう。



§21

02/06の本欄で、中学校の廃品回収について書いた。
PTA一般ピープルの私は、ある事実を見逃していた。
この行事としての廃品回収は、補助金(ナンノ補助なのだろうか?)が出るのだそうだ。

1回やると幾らという形での金銭が舞い込んでくるという。
だから、廃品回収自体の収益だけで、この行事の損得を計算してはならないとの指摘。
これを計算式に嵌めこんでも、たいした違いにはならないのだが、事実認識に誤謬があったことについては良くは無いのであるから、”すんません”と言っておいた。

”父兄の労力を金銭で換算するなんて考えはダメよ”なんて諭されもした。
これは黙って聞いておくだけにした。

そうではないのです。
ゴミの問題も、教育の問題も、金銭効率を考慮しないと解決の糸口さえも掴めない。
根源なのです。



§22

今年も時季が来た。
道路に面した我家の生垣の話である。
新芽が息吹、やがてその成長が止まる頃になると、手入れをしてやらねばならない。
電動の鋏で、やや太い枝まで落とす。この作業は、比較的簡単なのである。
その後が問題。
例年ならば、このゴミは、乾燥させた上で、敷地内または休耕の田んぼで焼却する。

想像してくだされ。所謂ゴミ出し用の袋が、50個ばかり並んだ姿を。
家庭ゴミである。私が処理する限り、家庭ゴミである。
植木屋さんなどの業者に頼むと、産業廃棄物になるのではないかと思うのであるが、家庭ゴミである。
市から配布されたパンフには、枝木・草類に分類される有料収集ゴミと記載されている。
有料は一向に構わない(実は、結構きついのではあるが...)のである。
むしろ、行政のゴミ収集が有料事業であるべきであるとの考えは、私の持論である。

しかし、当地域において、皆が同じ行動をとれば、現在のゴミ収集システムは破綻するであろう。



§23

敷地内に発生する植物ゴミの増殖が続く。
雨水は適度に落ちてくるし、その雨と交互にやってくる日差しは、我家の庭の草木を、我儘なままに成長させる。
除草剤を散布してしまおうかとの思いに至りかねない自分を押さえている。

除草剤を散布するのは、ゴミの不法投棄であろう。
さて、その除草剤であるが、正規にゴミとして処分しようとしたら、ゴミの種類としては、何になるか。
富津市では、”処理困難物”に分類されている。

化学薬品を、洗剤・料理廃油もそうなのであるが、結果的に下水として処理することが、日常的に行われている。
とりあえず、自分の所から無くすのは簡単にやれそうである。
そんな意味では、液体・粉体としての農薬なんて、”処理容易物”なのであるが、”処理困難物”に分類されているゴミを本気で(良心の呵責無しに)処理しようとすると気が遠くなる。



§24

料理廃油について。

富津市では、食用油は可燃ゴミに分類されている。
但し書きには、”新聞紙等に染み込ませて”とある。
商品名を存じ上げないが、化学的に固めてしまうという”スグレモノ”もある。

新聞紙に染み込ませて可燃ゴミとして処理するのは、ゴミの総量を増やす訳では無さそうではある。
しかし、”スグレモノ”利用は、明らかに総量を増やす(嵩ではないかもしれないが)。
使わない方が良いだろう。

自動車オイルのように、廃油回収システムは出来ないだろうか。



§25

台所生ゴミは臭い。
烏などの鳥による掻き散らしも、このゴミの特徴である。

我家のゴミの市による収集場所には、台所生ゴミは出ていない。
地域の皆さんが、各家庭で処理しているのである。
従って、臭いの撒き散らしと散乱とは、発生してはいない。

都市の景観を考えると、どちらも好ましいものではないから、観光都市として名を売る地域(東京都を含んでいる)では、商工観光の一問題として取り組むべきではないかと考える。

単にゴミを処理すればよいというものではない。



§26

子供達が夏休みに入った。
途端に大量のゴミが出現した。
我家の子供達は、長いこと大量のゴミとともに生活していたことになる。

これでは何とも情けないので、念のため聞いてみると、この間、ゴミをゴミとして認識していなかったらしいのである。
今回発生したゴミは、何時からゴミになったのであろうか。

少なくとも、ゴミだと思って買ってくる商品は無い筈なのである。
値札とか包装材とかは、ゴミになるなという予感はあるのではあるが...


§27

不法投棄について考えさせられる体験。
我家のある集落は、後ろに(何故かこう書きがちである。ま、これは問題とはしない)山を背負っている。

有線電話会社、無線電話会社、自衛隊といった組織の、それぞれのアンテナ塔が建造された頂上までは5Kmほどの山間道を分け入って行く(この表現はあながち大袈裟ではない)。
久しぶりに、分け入ったのである。

この道の両側に、何台の冷蔵庫・テレビ・自転車・ポットが置き忘れられているのか。自動車すらある。

内容が空しい文面を記載した、市役所名の書かれたたて看板が幾つも存在する。
見るからに新しい看板もある。
当然と言えば当然のことであるが、看板で不法投棄を阻止できていないのである。

本気で不法投棄を行った者を探し出す必要がある。
少なくとも私には、知ることが出来た廃棄物が存在した。
これを放置しているのは、市役所・警察の怠慢である。

ゴミの問題で取り上げるべき問題であったかどうかの判断は、諸兄にお任せする。



§28

”冷蔵庫””テレビ”などが、廃棄に費用が発生することになって数ヶ月経過した。
不法投棄が増加すると予測していたのであるが、そんな統計が出現してこない。
実際我家の近辺で垣間見る限りでも、この心配は杞憂であったようである。
該当製品の新たな廃棄物は見当たらない。

この現象をどう判断するか。
当面の頭の体操をしてみては如何。


§29

冷蔵庫を処分することになった。
我家の年寄りの家の話である。

私の母親であるばあさんは、廃棄処分に費用が発生することを知らなかった。
このことを告げると、当面は廃棄せずに物入れとして利用すると言う。

この用途で使用後に、何年か後になって廃棄処分にするときには、冷蔵庫とし
ての処分ではなかろうというのがこの女性の論理である。

そういえば、テレビの範疇には、パソコン用の(TVチューナ無しの)モニター
ディスプレイが入っているのであろうか。
念のために言えば、液晶テレビも入るのかしらん。


§30

先に我家で冷蔵庫を処分することになったという話をした。
丁度良いタイミングで、リサイクルショップの店長と話をする機会を得た。

冷蔵庫やテレビの類、廃棄処分に費用が発生する製品は調達しにくくなったという。
もっとも、持ち込んでくる人たちは、無料で良いから引き取ってくれというのだそうだ。
この行為は理に適っている。

しかし、店の側からすれば、売れ残ってしまった場合のことを考えると(電化製品は、製造年月日からの経過年数が販売価格に反映するので、長期の在庫を嫌うのだそうだ)、仕入れ値以上の廃棄コストが掛かるので、店に置きたく無いそうである。

簡単に言えば、あの法令だか条例だかは、リサイクルシステムを破壊する方向に向かわせたのである。
一方的な解釈だけれども、ある種の真実は存在しそうである。


§31

当社の定款の目的欄には、”土木建築工事業”が謳ってある。
小規模の建設工事を商売の一環として行なっているのである。
そんな訳で、産業廃棄物の処理については捨てる側として頭の痛い問題がある。

官の指導監督は厳しくなっている。これはこれで良いのであるが、また、世間様の風当たりが強く(非難しているのではない)斯くあるべきなのではあるが、実務的には中々難しい。
根本的に、経営的に成り立っていて、受け入れに充分な規模の最終処分場施設が存在していないのである。(つづく)


§32

産廃処理費は、急騰している。
指導に沿って営業展開すれば当然こうなる。
しかし、例えば県の発注する工事の見積りに、充分な産廃処理費が計上されているかといえばそうではないのである。
時代錯誤も甚だしい担当者もいる。
個人レベルの問題ではない。役所として対応していないからこんな個人がいるのである。
解かりやすい例を引けば、改修工事で発生する銅とかアルミニウムとかの金属を処分すれば処分収入があるだろうとのお告げである。
20年ほど前なら確かにそんな事例はあるだろう。

単純に処分費用を浮かせるために、自分の土地に溜め置いているのではない。



§33

”区分すれば資源、混ぜればゴミ”とかいうフレーズが、ゴミ収集車に書かれていたのを見た。
言いたいことは解かる。

あちこち散りばめられた特定の原子(ま、原料という程度の意味)を集積するのが生産活動である。
鉄鉱石や金鉱石のように、トンのサイズからグラムの物質を取り出すのである。
土の中から野菜を育てるのである。もちろん、光化学反応も使って。

じゃあ、ゴミの処分はといえば、あちこちに散りばめる作業である。
煙にして大気に拡散させるとか、海洋投棄して海水に希釈してもらうとかがこれである。

土中はその場で留まるから該当する地域に住む一部の人たちが心配していて、その他の地域の人たちは知らん振りしている。
大気や海洋は、深刻な問題ナノデアルが、真剣に騒ぎ出す人が少ない。

都会に住む方々の意見を聴きたい。


§34

リサイクルをどう捉えるか。

もともと中古品を購入することに、大した抵抗感は無かった私である。
様々な分野の商品を中古で取得している。
が、中古品のネットでの取引には今一つ乗り気になれない。

この原因は何か。
自分の持ち物を商品と考える人がいて、これを市場に持ち込むのである。
特定の品物を購入したい人がいて、市場を覗き込むのである。
美術品などは概ね”中古品”である。
この取引に於いては、市場(ある場合には店であろう)の信用がモノを言う。

最終的には自分の眼を信じるのであるが、具体的な品物を直接見ることが出来ないと、情報が不足する。
(極端な対比例:ゴミ捨て場に置いてある品物は、大変にアリガタイノデアル)

公設の不要品展示場を創設できないものであろうか。


§35

とてつもなく関連性が薄い話である。
宇宙のゴミが誠に素晴らしいショーを演じてくれた。

ここでもまた”しし座”である。
見方を変えればゴミがゴミで無くなる。

しかし、このことは、見方を変えればゴミで無いモノもゴミと認識できるということの裏返しである。
ゴミ処理のコストの捉え方についても、様々な考え方があろう。


§36

いよいよ12月も終盤。
言い換えれば、今年の終盤である。

何故かこの時期排出されるゴミの量が増大する。
よくよく考えてみれば、”便利で必要なモノ”を必要ないのにとっておいたゴミ”に変化させているのは、使う人間の精神であることに気付く。

”捨てることが整理の根本”とノタマッタ経済学者がいたが、何故”取得しないことが整理の根本”という域まで踏み込んでくれなかったのだろうか。

新しい年を迎えるにあたり、旧くなったモノを新しいモノに切り替えることで心機一転との心意気は解かる。
が、来年は具体的なモノの刷新ではなく、精神的な刷新だけで年末を乗り切る体制にしたいのである。

証憑・帳簿の一定期間保存義務も、例えば7年間保存するのも、中々大変なのである。
何処に保存して置けというのだろうか。
保存場所の確保に予算など割り当てられないのである。